アイドルと「卒業」について -Aqours 5th LIVE 感想

 

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消えてゆく虹に約束しよう

忘れないよいつまでも

(Saint Aqours Snow「Over The Next Rainbow」より)

 

この日、満員のメットライフドームには虹がかかった。

 

L.Aでの公演から始まりソウルでも実現された「Aqours rainbow」の企画。日本でもこれまでライブのたびに様々な企画がファンの間で画策されたが、箱の大きさなどの理由からどれも実現は叶わなかった。今回の企画も、直前までその一途を辿っていた。「アンコールに合わせてスタンドに虹をかけませんか?」有志によってライブ当日に配られたフライヤーにはそう書かれていたというが、半数以上の人は見向きもせず、その存在すら知らない人がほとんどだった。

twitter.com

https://twitter.com/Aqours5thLovet1/status/1135761810131316736

それ故に、初期微動は従容とした些些たるものだった。しかし、本当に実現しようと信じて動いた人たちによって、会場には一つ、また一つと同じ色が固まった地点が生まれ、気付けば誰の目にも顕著なほどに光は意志を示した。企画を知らなかったスタンドの人たちも、綺麗に色が分かれた反対側のスタンドを見て、思わず自分の席の周りを見渡し、手元のペンライトを操作して色を変えた。

周りをよく見てそれに合わせる。その行為だけを切り取るならば、それは日本人ならではの協調性と配慮が呼び起こすバンドワゴン効果にも似た単なる同調現象かもしれない。しかし、そこにあったのはおそらくそんなチープで凡庸なものではない。目の前で繰り広げられる、圧倒的な耽美を呼び起こす情景にただ心奪われ、陶酔する人々の脈打つ抒情そのものであり、想いがひとつになることへの賛美と得も言えぬ高揚感の表れだ。それが着実に会場全体に広がり、アンコールが明ける頃には、スタンドは綺麗に8色に分かれた。

だが、Aqoursのメンバーは9人だ。どうやら最上段のみかん色が予定よりずっと少なく、僅少な光になってしまったようだった。それを察したアリーナの一部のファンが、すかさずペンライトの色を変える。平面上の客席では、それに気づくことは決して容易ではない。しかし、気づいた人が一人、また一人と色を変え、隣の人に、前の人に伝えていく。その想いがつながり、ラスト一曲を迎える直前で、3万人を超える人々が詰めかけた会場は完璧なまでに9色の虹に染まったのだ。

そのような経緯からも、人々が虹の一部と化したことへの底知れぬ達成感と矜持を皆一様に抱いたことは想像に難くない。公演終了後、規制退場により先に会場を後にするスタンドの観客と席に残ったアリーナの観客が、互いを讃え合うように感謝を告げながら名前も知らぬ人たちに向かって手を振り合う、そんな場面もあった。この圧倒的なホスピタリティと一体感こそが、ラブライブがずっと掲げていた「みんなで叶える物語」というコンセプトの意味するところだったのかもしれない。だが、この虹が、そしてこのライブがもっと大きな意味を持つものとなったことは、1日目の時点では我々は知る由もなかった。

 

 

限られた時間の中で -スクールアイドルの輝き

 ラブライブシリーズにおけるスクールアイドルとは、数ある高校の部活動のうちの一つとして数えられる。作中において、ラブライブの全国大会はμ’sが初優勝を果たしその名を轟かせた第二回大会を皮切りに、例えるならば高校野球に匹敵するほどの人気を誇る注目の的となっている。

 では、ラブライブという物語の舞台が学校の部活動という場所に置かれる必然性はどのようにしてあるのだろうか。

それは、スクールアイドルという存在が、部活動によって繰り広げられる青春そのものが、時間という最も有限性を擁するものによる制約を負っていることに起因する。一般的に高校生でいられる期間というのは、僅か3年間だ。人生という大きな観点から見ると、実に短い。部活動なら尚更だ。この短い期間の中で学生たちは精進し、成し遂げなければならない。高校生という期間は一度過ぎ去ってしまえばもう二度とは戻らない。後悔したくなければ、必死に足掻いて努力するしかないのだ。

 それはスクールアイドルにおいても当然同じことだ。彼女たちに求められるものは、歌とダンスの技量、人々を魅了するパフォーマンス、それら全てを内包した上で観測される「輝き」だ。「輝く」ということは決して簡単なことではないが、μ’sについて高海千歌が「どこにでもいる普通の女の子なのにキラキラしてた」と評したように、必ずしも才能や器量が必要というわけではない。しかし輝くためには、仲間やライバルと切磋琢磨しながら結果を追い求めて直向きに足掻く必要がある。そして仲間と共に高みへと上り詰めたとしても、その先に待っているのは「卒業」というデッドラインだ。

 かつてスクールアイドルの頂点に立ったμ’sは、三年生の卒業と共に迎えた人気絶頂の渦中で、プロになって卒業後も続けるという道を蹴ってまで「μ’sを終わらせる」という選択をした。

その理由について絢瀬絵里

「限られた時間の中で、精一杯輝こうとするスクールアイドルが好き」

と述べているように、限られた時間の中で生きるスクールアイドルに確固たる拘りを見せている。

 

物語の中でμ’sがそう選択した以上、現実世界での声優ユニットとしてのμ’sも同じくファイナルライブを迎え、物語の幕を閉じることは当然と言えば当然だった。なぜなら、ラブライブシリーズのライブ活動における最大の特徴はシンクロパフォーマンスであるからだ。作中のキャラクターと同じ衣装、同じ振り付け、同じフォーメーションで踊り歌い、時には物語の文脈に沿ってライブ・パフォーマンスを行う。それは全て作中で動く9人の存在あってのものということになる。だからこそ、劇場版を終えてμ’sは勇退の道を選んだ。

 

 では、Aqoursの場合はどうだろうか。μ’sと同じく、アニメ二期の最終話でAqoursの3年生3人は卒業を迎えた。μ’sの劇場版からファイナルライブまで一連の流れを委細承知しているファンは、その時点でAqoursが一つの終わりへと着々と歩を進めていることへの察しを付けていた。しかしAqoursは良い意味でその予想を裏切ることとなる。アニメ終了後も声優ユニットAqoursは精力的に活動を続け、アニメ二期をなぞった演出を施した3rdライブから僅か4か月で東京ドームでの凱旋公演、全国各地を周るファンミーティングツアー、シリーズ初となるフィルムコンサート形式のアジアツアー、そして2020年にはライブツアーの開催が発表されるなどその勢いはまるで留まることを知らなかった。

 

圧巻だったのは4thライブだ。想いよひとつになれで、別会場にいるはずの梨子が同じステージで踊るというアニメには無いシーンを再現することで、これまで大切に守ってきたシンクロをあえて崩すというかつてない演出方法に挑戦。それはアニメとのシンクロを第一にやってきたラブライブにおいて、異例の試みだった。そして同時に、そのスタイルを破ることは軸にしていた物語=境界線を越えて新たな道を切り拓くことを意味する。劇場版を終えた今、画面の中で動くAqoursの物語には一つの区切りがついた。それでも今後現実世界のAqoursが活動を続けるのならば、その境界線をどうしても越える必要がある。4thでの「想いよひとつになれ」は、正にその新たな可能性を探るための序幕であり、存続を願うファンにとって願ってもみない瑞兆だった。

 

そして迎えた今回の5thライブ。

 

劇場版で登場した曲を基盤としたセットリストと演出。その一方で、アニメの劇中歌はほぼ全く披露されず、「スリリング・ワンウェイ」や「Daydream Warrior」などのアニメに登場しない人気曲の披露によって会場のボルテージを最高潮まで引き上げたことは、アーティスト・Aqoursとしての今後の躍動を予感させた。

挑戦的なセットリスト、観る者を沸かせる革新的な演出、拘り抜かれた衣装、洗練されたパフォーマンス、怒号のように響き渡る歓声、その全てが「最高」と呼ぶのに相応しい圧巻のステージであったことは言うまでもない。

 

特に私が心臓がはち切れるほどの感慨に打たれたのは、やはりラストの「Next SPARKLING!!」だ。

初めに断っておきたいのは、Aqoursのライブに定型の流れが存在するということだ。アンコール後は2曲ほど披露して、次のライブの告知を含めたお知らせを大画面に映して発表する時間があって、そのままの流れで1人ずつ感想であったりを述べて、最後に一曲歌い終えると、会場の端から端まで「ありがとう」の挨拶をして捌けていく。これまでのライブは全てその流れに沿って行われてきた。

しかし今回は何から何まで違った。

まずは一人一人のMCの時間。これがアンコール前に設置され、アンコール後はキャストが話す時間が一切無かった。虹に包まれたステージに登場したAZALEA、Guilty Kiss、CYaRon!の3ユニットがそれぞれの卒業ソングを披露し、モニターに劇場版のクライマックスである浦の星を訪れるシーンが映し出され、新生Aqoursの商店街での初ライブへと繋がる。心音すら聞こえるほどの静寂を迎える中、6人での円陣の掛け声と共に曲が始まり、ステージの幕が上がる。

そこに居たのは、黄色を基調とした片翼の衣装を纏い次なる旅立ちへの決意を新たにする、劇場版のAqoursのそのものだった。

「アニメとのシンクロを一番大事にしています」

彼女たちは過去にインタビューでそう話した。ステージに立てば、見た目だけでなく心すら一つになると語っていた。

 

会いたくなったら 

目を閉じて みんなを呼んでみて

そしたら聞こえるよ この歌が

ほら次はどこ? 一緒に行こう

 

切なさをギュッと噛み締めるような恍惚とした表情、繊細で儚くもしっかりと丹心が込められた力強い歌声、華やかな虹を背に眩しい太陽に手を伸ばすその姿は、3年生がいなくなっても「ずっとここにいる」ことに気付き新たな一歩を踏み出す劇中での6人を想起させる。

 

そして2番。ここからは居ないはずの3年生と一緒に歌う、どこか夢の中にいるような心象風景を表象したシーンだ。

 

ライブでは、センターステージから3年生が登場。

 

ひとりひとりは違っていても同じだったよ

いまこの時を大切に刻んだのは

ぜったい消えないステキな物語

みんなとだからできたことだね

すごいね、ありがとう!

 

ここまで歩んできた道のり、それは一番叶えたかった願いを叶えられず、何度も傷つきながらそれでも立ち上がり、走り続けてきた道のり。それら全てを肯定するための“今”。彼女たちの歌は、限られた時間の中で駆け抜けた日々の全てに輝きを見つけ出し、優しさに溢れたメロディーに乗せてまだ見ぬ明日を照らし出す。

 

いまだって未熟だけど

先へ進まなくちゃ それしかないんだよね

未来へ‼

 

この曲の持つ切なさを、感傷と呼ぶにはあまりに陳腐で軽薄だろう。どこまでも抒情的な美しさを奏でる旋律と、自然と涙を誘うような懐かしさと共に未来へと思いを馳せる恍惚感。Aqours史上最も長い6分29秒の演奏は、この時間をいつまでも続けようという願いすら感じ取れるほどエモーショナルに響き渡る。

 

忘れない 忘れない 夢があれば

君も僕らもなれるんだ なりたい自分に

忘れない 忘れない 夢見ること 

明日は今日より夢に近いはずだよ

 

とうとうラスサビを歌い終え、アウトロへと入ると共に、9人は後ろを振り返りメインステージの階段を上っていく。その演出は新たな場所へと翼を広げて旅立っていく物語の9人を想起させ、否が応でも深い“意味“をわれわれに感じさせる。

そして、フェードアウトしていくメロディと共に9人はステージを後にする。そこには一切の言葉を介さない。いや、言葉など必要ないほどにそこには万感の想いが満ち溢れていた。最早、ここで何か一言でも言葉を発するだけで全てが崩れてしまうほどに完璧な構成だったと言っていい。

そこにあったのは、「スクールアイドル」である姿しか映さないラブライブ!の物語そのもの再現であり、その後一切の彼女たちのシーンを必要とせず、物語を終えた彼女たちの意志と輝きは未来のスクールアイドルへと受け継がれていく。

だがしかし、彼女たちの歩みも、スクールアイドルの未来も、引いては返す波のように絶えることなく続いていく。この曲のアウトロには、そんな意味すら感じ取れる。

この法悦の時を経て強く刺激された私の瞳の奥の涙腺ダムは激しく決壊し、心臓の端から端までを席巻するほどに肥大化した感情という感情は留まることなく成長を続け、気付いた時には既に行き場を失ってしまっていた。

 

そして、そんな行き場の無い巨大な感情はライブ後からじりじりと、だが着実に言い知れぬほどの喪失感を生み出した。その喪失感の正体について私は数日の間考え込んだが、それは楽しみしていたライブが終わったことへの単純な虚無感ではなく、間違いなく5thの持つ「意味」から誘発したものだった。

 

まず、ずっと引っかかっていたのは最後のMCだ。皆が皆、エモーショナルと言えば良いのか、何とも言い難い切なげな雰囲気を隠さなかった。

 

中でもそれが顕著だった逢田さんのMCを振り返ってみる。

 

「この時間が本当に楽しくて終わらなければいいなぁって思っちゃうけど、私たちは前を向かなければいけないしどんどん先へ進んでいかなければならない」

「もしかしたら皆と会えない日が続くことがあるかもしれないけど」

「またこの9人でライブできる日を夢見て頑張っていきたいと思います!」

 

いや、ライブツアーも予定されてるのに??どういうこと??と一瞬戸惑ってしまった。でも、たしかに今回のライブでは恒例のお知らせの時間もなく、次のライブも発表されなかった(ラブライブ!9周年発表会で全てを出し尽くしてしまったというのはあるが)。そしてライブツアーは2020年。おそらく丸一年以上の間隔が開く。これまでのペースから考えると、たしかにかなり長い。

 

それだけではない。今回の5thは、Aqoursにとって、一つの区切りとなる大事なライブだった。これまでAqoursが日進月歩の勢いで走り続け、それを追い続けることでずっと忘れていたが、劇場版で3年生が卒業し、事実上Aqoursの物語は終わったのだ。勿論、6人のAqoursはこれからも活動していくのだろうが、われわれにそれを観測する術はもう無い。

例えるなら、μ’sのファイナルライブだ。あの時と違って現実世界のAqoursは活動を続けるからと楽観視していたが、ファイナルが含有していた意味はそれだけじゃなく、今まで二人三脚で歩んできたキャラクターとキャストたちとの、決別の儀でもあった。「ずっと一緒」という表現を使っても、この先演じることが少なくなることは明白だ。それは、なんて寂しいことなのだろう。それをわかっていなかった。そんな軽率な気保養のような感覚でライブに望んだからこそ、私は大きな感情に打ちのめされたのだ。

 

劇中において、9人であることに拘り続けて驚くほど潔くグループを終わりにしたμ’sとは対照的に、彼女たちは「6人でもAqoursを続ける」という選択をした。

アニメや劇場版で千歌が「Aqoursは何人と決まっているわけではない」と言ったように、Aqoursは変化を受け入れて進むグループだ。だが、それに対して現実側のAqoursは違う。リーダーの伊波さんはこれまで何度も「Aqoursはこの9人じゃなきゃAqoursじゃない」と述べている。勿論それはその通りだろう。今更物語の文脈に沿って三年生のキャストを卒業させたところでそんなことは誰一人として望んでいない茶番でしかない。

詰まる所、Aqoursの「6人でも続けていく」という作中の答えと「この9人じゃなきゃいけない」という現実側は、皮肉にも決してシンクロすることのない二律背反の関係でしかないのだ。だからこそAqoursをこの先待ち受けるのは、依拠すべき物語も、再現すべきシンクロも無い未知の世界だ。自分たちで運命を切り拓くほかない、スリリング・ワンウェイだ。主旋律を失った楽曲のように、大切な何かを置いて進まなければいけない道のりなのだ。

 

そしてライブが終わってから日を待たずして、高槻かなこさんがメインボーカルを務める新ユニットの結成、斉藤朱夏さんのソロデビューが発表された。同じく逢田さんはソロデビューを果たしたばかりで、伊波さんは夢だったミュージカルの公演を控えている。キャストの9人もまた、新たな輝きへと手を伸ばし、挑戦を始めている。

 

Aqoursはおそらく、今までのように頻繁に活動することはこれから少なくなっていくのだろう。9人全員が集まることもきっと難しくなってくるはずだ。ワンマンライブも、1年に1回、あるいはそれ以下のペースになるのかもしれない。だが、次に集まるときには、それぞれがそれぞれの場所で経験を積み、一回りも二回りも成長した9人の姿が見られるのだろう。少なくともAqoursがそういう時期に入ったのはおそらく間違いではない。それは頂上戦争後の麦わらの一味とも、活動休止中のLUNA SEAとも例えられる。

 

それを踏まえてもう一度「Next SPARKLING!!」の歌詞を振り返ってみる。

 

止まらない 止まらない 熱い鼓動が

君と僕とは これからも つながってるんだよ

止まらない 止まらない 熱くなって

あたらしい輝きへと手を伸ばそう

 

それぞれ出した結論は違えど、「新しい輝きへと手を伸ばす」ことで物語の文脈とも合致してシンクロを達成していたことにここでわれわれはようやく気付かされる。

μ’sの劇場版での、最後の9人の閉塞的な空間で行われたステージは、μ’sとその物語の明確な“終わり”を我々に感じさせた。

対してAqoursの劇場版の最後のステージは、むしろ新たな幕開けを示す“始まり”の意と捉えることが出来る。変化しながら前に進むことへの肯定と決意。仲間が新たな場所へと旅立つことへの、祝福と受容。作中の彼女たちへの、そして一つの区切りを迎えたキャストへの暖かな声援は、感情に色を付けてそれを顕示するように、一歩を踏み出そうとする彼女たちの背中を押すという後付けの意味を内包して9色の虹を象ったのだと、今だからそう思えてしまうのだ。

 

そしてさらにもう一つ、小宮有紗さんのMCについての所感を綴らせていただきたい。

 

 

「終わりがある」ということ -ハイデガー存在論

 

「アイドルは永遠じゃないからこそみんなが追いかけたくなったりするんですけど、9人のAqoursは永遠であってほしいなと思いました。」

 

このコメントを聞いてから、私は「永遠」という言葉が随分と心の何処かに引っかかり、しばらくこの言葉について考え込んでしまった。

 

アイドルは永遠に居続けることはできない。グループからの卒業であったり、ときには脱退や解散の場合だってある。そうじゃなくても年を重ねれば必ずアイドルではなくなる瞬間がやってくる。アイドルの有限性は目に見えて顕著だ。

 

「終わりがあるから美しい」という言葉がある。どんなに綺麗に咲いた花でもいつかは枯れゆく日が来るように、生がある限りそこには必ず終わりが訪れる。『平家物語』では、「盛者必衰」という言葉を用いて、どんなに栄えたものでもいつかは必ず滅びるという仏教的な無常観を説いた。だが、だからこそ、短い生を全うしようとする姿に心惹かれるのが人の性というものである。

花が美しいのは、枯れるまでの間に一生懸命咲き誇るからでもある。人もまた花と同じく、いつまでも若く美しくいることはできないが、限られた時間を精一杯生きるからこそ花のごとく美しいのだ。

青春に終わりがあるように、限られた時間の中で一生懸命輝くからこそ、アイドルは応援したくなるのだろう。

 

そしてその限られた時間の中で輝くためにはどう生きればよいのか、それを説いたのが20世紀最大の哲学者、マルティン・ハイデガーである。

 

ハイデガーは著書『存在と時間』の中で、人間の存在を「現存在」と名付け、自らを「死への存在」と認識することの有意性を説いた。

彼はダス・マン(日常に埋没し、ただ漫然と寝食を繰り返すだけの存在)の生き方を否定し、自らを「死への存在」と自覚し自身の生き方を吟味することによって、時間の有限性を認識し、限られた時間を精一杯生きることへの決意が出来ると考えた。

同時に、死を意識することで今この瞬間を意識するようになることを「本来的時間性」と名付け、死を自らの人生を全うするためのものとして肯定的に捉えたのである。

 

先日観劇した舞台「銀河鉄道999」は正にそれに思い当たる節があった。

永遠の命を手にするために機械の体を求める旅の途中で、主人公の鉄郎は永遠の命にかまけて無為に生きる人々の空虚さを目の当たりにすることで「限りある命」の尊さに気付き、時間が限られていることで生きている意味が生まれることを知った。そうして鉄郎は、限りある命を燃やすために戦ったのだ。

 

前述したμ’sの劇場版も根本は同じだ。限られた時間の中で「終わり」を自覚するからこそ、今という時間を精一杯生きることが出来る。そしてそこには、アイドルの輝きの本質が存在するのだ。

 

小宮さんはそういったアイドルの有限性が持つ儚さを理解し前置きとして述べた上で、永遠という言葉を使った。「9人のAqoursは永遠であってほしい」という願いは、ここまでの話の流れからすると、矛盾した言葉でもある。なぜならアイドルにも人間の生にすらも、「永遠」は存在しないからだ。だからこそ、絶対に叶わぬ願いは切なさを帯びる。余命幾許も無い子どもが将来の夢を語るような、胸が締め付けられるほどに遣り切れない気持ちに追われてしまう。そして、そこにいた誰もが同じ想いを共有しているからこそ、それはより悲痛に心に響くのだ。しかしそれでも、いつか来る「終わり」に向けてこれからの”今”をも精一杯生きると誓った彼女の強さに、やはり胸を打たれるのであった。

 

今という時間を大切にし、日々を謳歌するためには、死=終わりが必ず来るということを念頭に置いて生きる必要がある。

今推しているアイドルも、明日にはアイドルではなくなっているかもしれない。

 

Memento Mori (いつか必ず来る死を忘れるな)

 

最もこの精神を忘れぬよう肝に銘じておくべきなのは、実はオタクの側なのかもしれない。